tankuro  健康に生きる為の案内図

人生を楽しく過ごす為に必要な事考えます。

12 体験談 兄の納骨

12 体験談 兄の納骨

 

    tankuroです。こんにちは。 

              f:id:tankuro03nkuro0502:20210602141913g:plain

  前回の兄の葬儀に引き続き49日の

  法要の話です。

  貧しい私達にも精一杯送れました。

  気楽に見っててくださいね。

 

◆◆ 私の後見人の役目は、まだ続きました。

 すぐに49日の法要がやって来ました。

 そして、その日に納骨をする予定でした。

 まずは日にちを決めるために葬儀会社経由で「お寺さん手配」

 を依頼しました。◆◆

 

◆◆ 数日後、葬儀のお勤めしていただいた住職から電話が

 ありました。

  希望日の候補は伝えてありましたので、住職の都合を

 伺って 〇〇日の日曜日、15時にお墓でと言う事に

 なりました。◆◆

 

◆◆ 住職は当日都内で法要があるので、直接お墓に向かい

 ますとの事。

 法要を県内の村のお墓の前で行い、納骨の読経をするとの

 話しでした。

 費用5万円で、「遠距離代金はご相談ください」の回答は

 「タダでいいですよ」の言葉に甘えて、誰に相談する事なく

 即決しました。長い!◆◆

 

◆◆ 当日がやって来ました。

 親族は15名ほどが集まっていました。

 時間通りに住職が黒の高級車で現れました。

 そして、挨拶もほどほどで49日法要が始まりました。

 読経に続き、みんなでお線香をたまむけました。

 仏法の話をいただき無事に終了しました。◆◆

 

◆◆ 住職が「石屋さんはまだおいででないのですか?」と

 尋ねました。

 私は答えました。

 「納骨はここの職員の立ち合いで私達で行いますので大丈夫

 です」呆れ顔で、「これを持ち上げて皆さんがなさるの

 ですか?はぁ、珍しい。頑張ってください!」とお布施を

 受け取って、風のように高級車で去って行きました。

 これとは、お骨を納める所を塞ぐ、見るからに重そうな石材

 こ事です。◆◆

 

◆◆ 石屋さんの話は、役所に申請の電話をした時に尋ねられた

 ので、必要なのは知っていました。

 でも、父の納骨も私達だけでやりました。

 ただ、村役場に申請していなかったので、霊苑の人が飛んで

 来てお説教を喰らったのを鮮明に覚えています。

 今回はその轍は踏まないと、手配済みです。◆◆

 

◆◆ そんなお利口な私は、事前に百円均一によって分厚い

 ゴムのドアストッパを2個買っていました。

 納骨場の蓋をしている石材は、だいたい90cmx45cmx

 15cmの大きさで推定40kgもありそうでした。

 年長の家族は大中のバールを2本用意してくれていました。

 前回もできたのだから問題ないと、全員が思っていました。◆◆

 

◆◆ 私達はお寺さんの呪われた言霊の意味を、痛恨する事に

 なりました。

 その石材は風化してびくともしません。

 ずらす事も指を入れる事もできません。

 それでもなんとか数人で持ち上げて、石の隙間が覗きました。

 間髪を入れず私のゴムストッパの登場です。

 それを挟んだ隙にバールを差し込みました。

 大勢で石材を抱え、なんとか開放することが出来ました。

 やった~っっ。◆◆

 

◆◆ 納骨の開放口は思ったより狭く、顔をの覗き入れるのが

 やっとでした。

 良く見ると骨壷がいくつか倒れ、お骨たちが俺だという主張も

 できずに散乱していました。

 それを集め納めなければ兄の入る場所がありません。

 また、さあ大変だ!◆◆

 

◆◆ 白羽の矢が当たったのは、私の息子でした。

 一番細くて若かったからです。

 何とか足から入り、身をかがめお骨たちを集め、いくつかの

 骨壷に誰れそれとなく静かに納まってもらいました。

 息子よ、でかした!めでたしめでたし!、、、。◆◆

 

◆◆ 石材を元のように戻し、100円均一で買ったパテでみっと

 もなく凸凹に仕上げ、その場で解散になりました。

 後見人は本当に疲れ果てたのは、、、。◆◆ おしまい

 

コロナに負けるな!

  スタミナつけてね!

 

11 体験談 兄の葬儀

11 体験談 兄の葬儀

 

 こんにちは、tankuroです。

 

     f:id:tankuro03nkuro0502:20210601225140g:plain
 兄の葬儀を後見人として無事に終えることが出来た

  お話しです。

 私のように資金が潤沢でない者でも、家族を送ってあげる

  ためには、お葬式が絶対必要です。そんな私達の体験を、。

 

◆◆ 葬儀代はNET調べで平均121万円で、お寺さんの

  お布施は平均49万円だそうです。

  そんなお金はなかなか用意できないですよね。
 兄の葬儀もそれほどお金をかけないで出来る様に

 模索しました。◆◆

 

◆◆ 最近定額で葬式ができる会社がNETやテレビで

 広告しているの知っていますか?

 私もNETで調べて初めて知りました。

 後見人の役目と思って、兄がなくなる1週間前に当たりを

 付けました。

 その経緯をご説明します。

 何かの参考になればと思います。◆◆

 

◆◆ その会社に連絡して、事情を話し予約できるのかを

 尋ねました。

 すると可能との返答でしたので、そのまま電話で申し込み

 をしました。

 その時が来たら電話1本でOKとのお話でした。

 選んだ内容は次の通りです。◆◆

 

◆◆通夜は行わない「告別式」「火葬」との「1日葬の家族葬

 プランでした。

 金額は32万円ほどでした。

 また、別途「お寺さん手配」プラン9万円を選択しました。

 あくまで費用を抑えようと考えたからです。

 通夜を行わないのも、本人も許してくれると思うからです。◆◆

 

◆◆ プランには会場費を含むほとんどの物が用意されて

 いました。

 亡くなった病院までの本人のお迎え、安置、会場費用、棺桶、

 骨壷、霊柩車、火葬、会葬令状などなど。◆◆

 

◆◆ 会場は事前に候補を2軒ほどあげておいて、実際の決定は

 亡くなった日に相談でした。

 「お寺さん手配」は告別式、初七日法要、炉前読経、それと

 戒名も含まれていました。

 それでは、葬儀のお話を時系列でさせていただきます。◆◆

 

◆◆ 兄が召されて、約束通り手配の電話をしました。

 すると2時間もしない内に葬儀社の方がストレッチャーと

 一緒に現れました。

 それまでは看護師さんが兄に旅立ちの準備をしてくれ

 ていました。

 まだ兄はあったかいのでお別れに抱いてあげてくださいと

 おしゃってくれました。

 ですが、何故か私はそれが出来ません。◆◆

 

◆◆ 私たち家族は涙涙のうちに、病院のエントランスで

 兄の乗った車を見送りました。

 2時間後に自宅の近く会場で打ち合わせをする事になって

 いました。◆◆

 

◆◆ 打ち合わせ場所は、当日の会場でした。

 新しくはなかったのですが、施設はそれなりに良かったと

 思いました。

 会議用のテーブルとパイプ椅子が広い会場にぽつりと置かれて

 いました。

 お迎えに来た時の方がリストを手に説明を始めました。◆◆

 

◆◆ 写真などの必要な物の説明とオプションの説明でした。

 ここでも予算を抑えるためにシンプルにしてもらいました。

 ただ、兄の友人や勤め先など自治会の人などの参列希望が

 ありましたので、10人までの制約を回避するために会場を

 大きくしてもらいました。

 追加費用は10万円でした。◆◆

 

◆◆ その相談をしている時に、係の人に連絡が入りました。

 火葬のできる日時の候補日が決まった連絡でした。

 早くて4日後の12時でした。

 それを承諾すると、逆算して告別式の開始時間が10時に決まり

 ました。

 そして、兄としばらくお別れすることにして、その場を後に

 しました。◆◆

 

◆◆ その後家族で連絡作業や当日の予定の確認などをして、

 数時間を費やしました。

 私は葬儀社から渡された手引きを睨めっこして、今後を

 考えました。

 とりあえず当日まで仕事は行く事にしました。

 特にこれと言ってやる事がなかったからです。
 忌引き休暇は3日ありましたが、葬儀の後が忙しいので

 その時に使用する事にしました。◆◆

 

◆◆ 当日になりました。

 会場には開始の1時間半前に到着しました。

 姪や親族と合流して、会場係の方に挨拶して、会場の確認に

 いきました。

 良くできた会場でした。

 兄の遺影も笑っていました。

 受付周りを見ました。

 会葬記入カード、会葬礼状がありました。

 今日は会葬の返礼品は渡さずに後日郵送する事にしていました。

 会葬礼状をお渡しするだけです。◆◆

 

◆◆ 返礼品は不祝儀の金額の半返しで、NETで一括注文する

 事にしていました。

 その方が無駄もないし、それなりの心のこもった返礼を

 できるからです。

 礼状にはお塩だけは付けてもらいました。

 もちろん。追加枚数とお塩はオプションです。◆◆

 

◆◆ お寺さんが来て喪主の姪と一緒にご挨拶に行きました。

 お寺さんから事前にお電話いただいていたので、戒名は私の

 一存で決めていました。

 ご挨拶もそこそこに告別式が始まりました。

 喪主は常に呆然と無口でした。◆◆

 

◆◆ ありがたい事に、参列者は40名ほどになりました。

 兄の人徳なのでしょう。

 学生時代の友人も大勢参列して来れました。

 葬儀は流れるようなお寺さんの読経で順調に進みました。

 火葬場に行かない人達には、喪主からお礼を言ってその場で

 お別れしました。◆◆

 

◆◆ 火葬場では、よくある光景で全てが順調に進みました。

 お寺さんは自家用車で来てくれていたので、お礼を言ってそ

 の場で失礼しました。

 残った家族や親戚は、精進落としの為和食料理屋に移動して、

 個人を偲びながらひと時を過ごしました。◆◆

 

◆◆ 後見人と妹は、早々に食事を終え、会葬カードと不祝儀の

 中身を確認して整理に追われました。

 まぁ、本当に大変!◆◆

 

◆◆ 結果、葬儀にかかった費用は55万円くらいだったと思います。

 後日、優柔な姪と返礼品を25万円くらいで手配しました。

 これは不祝儀の半返しですから、結局55万円+9万円 

 引く25万円が葬儀費用と計算できます。◆◆

 

◆◆ 本当に安くできたと思います。

 葬儀会社には登録割引がありますので、私は二人分事前に

 登録してあります。しっかり者です。◆◆

 

いかがでしょう?少しは参考になりましたか?では、、、。

コロナに負けるな!

  スタミナつけてね!

 

10 体験談 兄の死

10 体験談 兄の死

      

    tankuroです、こんにちは。

           f:id:tankuro03nkuro0502:20210531151748g:plain

 いかに保険が大切かを、私の体験談からお話しを

 させていただきます。転ばぬ先の杖、、。

 少し前になるのですが、2つ違いの兄の話を

 させていただきます。

 今考えると、姪の後見人になるように兄は

 計らってた気がします。

 いつものように、気楽にの覗いてってくさいね。

 

◆◆ 兄は64歳の若さでこの世を去りました。

 膵臓癌でした。あっという間の死でした。

 そんな兄が60歳を過ぎた頃、私に保険について相談が

 したいとのことで、電話連絡がありました。◆◆

 

◆◆ 私は自分の経験から入院した時に家族に迷惑をかけ

 ない為にも、癌診断があった時に纏まった一時金の降りる

 保険を探すように話しました。

 もちろん安価で。◆◆

 

◆◆ 兄は30歳を過ぎた未婚の娘と同居していましたが、娘は

 あまり生活力のある娘ではありませんでした。

 兄自体月の収入は介護のディケアセンターの補助で10数万円

 程度でした。

 父親から受け継いだ古い住宅に住んでいましたので、なんとか

 生活ができていました。◆◆

 

◆◆ そんなある日、何を思ったのか兄に呼び出しを受けて

 実家に向かいました。

 自分の入っている保険を一緒に見て欲しいと言うものでした。

 「ほけんの窓口」に自分で出向いて、相談の上で2件の保険を

 契約して、すでに2年ほど経過していると話します。◆◆

 

◆◆ 最近兄はお酒を飲むとすぐに酩酊して、記憶をなくす

 らしく娘にも嫌がられてると話します。

 私もみんなでキャンプに行った時に酩酊する姿を見たこと

 があります。

 全く歩けなくなる状態でした。◆◆

 

◆◆ 今思うと兄は終活していたのかもしれません。

 先日も司法書士に、自宅の登記が亡くなった父と祖母の名義に

 なっているのを娘の名義に直したばかりです。

 台所の椅子に座って、2件の証書を見せてもらいました。

 1件はがん保険で、入院給付金と癌診断で100万円をいただ

 けるものでした。

 もう1件はどんな病気でも入院給付金が出る保険でした。◆◆

 

◆◆ 安価な割にはなかなか手厚い保障でした。

 「いいね。万全だね」と私は感心しました。

 なぜ私に相談するのかその時にはわかりませんでしたが、

 頼りない娘を支援する後見人に選んだと今では思います。

 なかなか策士でしたね。◆◆

 

◆◆ そんな兄が64歳になる少し前に、体調の不調を訴えて

 きました。

 経緯を聞くと、お腹が時々痛み食欲もなく痩せてきている

 との事。

 病院は近所のクリニックに行ったと話していました。

 私は大きな病院の診察を勧めましたが、クリニックから中堅

 の病院を紹介されたので、そこに出向くとの事でした。◆◆

 

◆◆ それから仕事も休みがちで家で伏せる日が続いたそうです。

 もう少し親身になっていたら、、、。

 結果が少し変わったかもしれません。

 後悔するばかりです。◆◆

 

◆◆ その後の経過はこうです。

 私も同行しましたが、中堅の病院から大学附属病院を紹介

 されて診断を受け、さらにがんセンターを紹介されました。

 がんセンターに行って後日の診断通知の日に、再度同行を

 頼まれ同席しました。

 診断結果は膵臓癌のステージ4でした。

 末期癌で肝臓にも転移が始まっているそうです。◆◆

 

◆◆ そこからの兄は見るに耐えませんでした。

 抗がん剤理療をし入退院を繰り返し、げっそり痩せ、お腹に

 水が溜まってポッコリ盛り上がっていきました。

 担当医の話ではお腹の水を抜くと体のバランスを壊し、急変

 する可能性があるのでそのままにするとの結論でした。◆◆

 

◆◆ 兄は見る見る弱っていきました。

 私達には二人の妹がいます。

 誰もが親身なり看病して、後悔のないように努めました。

 もう歩くことのできなくなった兄に、もう一度愛犬に合わせて

 あげようと病院の許可を取って、玄関先に車椅子で移動
 した兄に、妹達は対面させてあげました。◆◆

 

◆◆ 私は姪の相談を受け、無言での依頼の後見人の大役を

 果たしました。

 まずは役所に相談に行くようにと姪に勧めました。

 国民健康保険の「限度額適応認定証」の発行で医療費の

 支払いを「自己負担限度額」(¥44400)にする手続きを

 するようにと。

 また、今後のことを考えると「介護認定」の取得も、、、。◆◆ 

 

◆◆ 私も貸すだけの預貯金はありません。

 病院の入院費の支払いに必要なお金を工面しなければ

 なりません。

 保険の事をこの日の為に兄から聞かされていましたので、姪に

 「ほけんの窓口」に証書を持って相談に行くように促しました

 一時金と入院給付金は比較的早くいただけました。

 でも、病院の支払いや生活費で、月を跨ぎながらの自転車操業

 でした。◆◆ 

 

◆◆ そんな中、奇跡も起こりました。

 いよいよと予感する頃です。

 兄が昔から大の親友と呼んでいた単身赴任で新潟に住む

 〇〇さんに、連絡を取りました。

 〇〇さんは事情を聞くと「すぐに行く!」と1時間後に病室を

 尋ねて来てくれました。

 なんと、新潟ではなく家族のいる地元にたまたま帰省して

 いたとの事でした。奇跡です。◆◆ 

 

◆◆ 意識の薄れる兄は、星空を眺めているように呆然として

 いました。

 〇〇さんが話しても、たまに頷くだけでした。

 理解してるのか測り知る事はできません。

 そんな中で兄は私を呼び、「〇〇に飲み物をあげてくれ!」

 と蚊の鳴くようなかすれた声で言いました。

 わかってるんじゃん、よかった!◆◆ 

 

◆◆ そんな兄もそれから5日ほど過ぎた頃、いよいよかもと

 看護師から聞かされました。

 姪が今日はここに泊まると言い張って、カミさんが付き合う

 ことになりました。

 私は別行動で一旦帰宅することにしました。◆◆ 

 

◆◆ 私は何故か早朝から落ち着かないので、見舞いに行く為に

 夜も開けきらいうちに家を出ました。

 乗り換えの駅のホームにパン屋さんあり、泊まった姪達に差し

 入れようとお店に入りました。

 その時、携帯が鳴りました。

 カミさんからでした。「今、息を引き取ったから早くきて!」

 、、、。◆◆ 

 

◆◆ 長くなりまして、すみません。

 兄が亡くなった経緯はこの様な事でした。

 貧しい私達でも、残される人の事を考えると保険はとても

 大切です。

 ぜひ、たくさんとは言いませんが、困らない様に保険は備え

 ておきましょうね。お願いします。◆◆ おしまい。

 

 あっ、霊感の強いカミさんが言っていましたが、兄を迎えに

 亡くなった元奥さんと他2名がお迎えに来て来れていた

 との事です。私は信じます、、、。

 

コロナに負けるな!

  スタミナつけてね!

 

9   病気になって入院が決まったら 「限度額適応認定証」

9   病気になって入院が決まったら 「限度額適応認定証」

       こんにちは、tankuroです。
  備えをする事は大切です。

              f:id:tankuro03nkuro0502:20210530142625g:plain

 

◆◆ もしあなたが病気になって入院を余儀なくされたら
 どうすれば良いのか?ってお困りになる時があります。
 同居する家族にそれが起こるかもしれません。
 これからまずあなたに入院が決まったらどうすれば良いのか
 私の経験を踏まえてお話しします。◆◆

 

◆◆ 仕事を長期連続で休まないといけません。
 まずは上長を通して相談しましょう。
 シフトを抜けるわけですから、会社に迷惑をかける事を
 最小限にするためにです。
 それと自分の有給残数を調べて下さい。◆◆

◆◆ 本年中に消化される日数と来年度に消化され日数の
 合計数です。
 最大20日20日の40日はある筈です。
 あと何日残っているのかが重要です。それから入院月の予定日
 以降に含まれる公休数と翌月に支給される公休数を把握して
 おいてください。◆◆

 

◆◆ 皆さんは厚生健康保険か国民健康保険のどちらかに加入
 している筈です。
 どちらもこんな助かる制度があります。
 「高額医療費控除」です。
 皆さんにもその恩恵を受ける権利があります。◆◆

 

◆◆「高額医療費」には「自己負担限度額」があります。
 これを知っていると掛かった「高額医療費」から「自己負担限度額」
 を引いた金額が健康保険に申請することによって戻ってきます。
 知らなくて年度末の確定申告の「高額医療費控除」で申請すれば
 いいやって、今まで思ってやってきましたが、、、?◆◆

 

◆◆「高額医療費控除」 皆さんこれが同じものと誤解されている方
 が多くいらっしゃると思います。
 まず、そんな場面を経験することがないですよね。◆◆

 

◆◆ 年末の確定申告の「高額医療費控除」は家族合計が年間
 10万円を超えた金額に対して、前年払った所得税の中から控除を
 受けます。
 これに対して健康保険の「高額医療費控除」は直接払った金額に
 「自己負担限度額」を引いた金額が還付されます。
 完全に別物です。◆◆

 

◆◆ 「自己負担限度額」は月額26万円以下の収入の方で
 ¥44400です。
 それ以上は申請から3ヶ月後に還付され返ってきます。
 前者は納入した所得税から計算されますので数万円が返って来れば
 いい方です。◆◆

 

◆◆ でも、この制度は誰も、会社も教えて来れません。
 もったいない限りです。
 私も数年前に知りました。
 今まで払った「高額医療費」は帰ってきません。とふぉふぉふぉ、、
 、。◆◆

 

◆◆ さらにもう一つお話しすることがあります。
 健康保険の「高額医療費控除」には、「限度額適応認定証」なる
 ものがあります。
 これこそが最高に入院患者には助かるものです。
 これは何かと言うと、入院する支払いが「自己負担限度額」を超える
 と思われる時には、会社もしくは役所にこの「限度額適応認定証」を
 申請して下さい。◆◆

 

◆◆ これは「自己負担限度額」を退院の会計時に、その超える金額は
 除外されて請求される為の保険証だと思って下さい。
 つまり、「自己負担限度額」以上は支払わなくていいのです。
 これは預貯金の少ない私にはかなり助かりました。◆◆ 

 

◆◆ ただし、これにもルールもあります。
 一つの支払いで月を跨いで「自己負担限度額」超えない場合や
 同じ病院でも診療が異なり、一つの診療科の支払い合計が
 ¥20000を超えない場合は認められないこともあります。
 また、差額ベッド代や食事代なども金額から除外されます。◆◆

 

◆◆ 例外ですが、入院費の「限度額適応認定証」を受けた月に
 歯科診療費の合計金額が¥20000を超えたので、翌月それをに
 申請しました。
 すると3ヶ月後に全額還付されました。
 申請書類はダウンロードです。
 同月であればそんなことも出来ます。◆◆

 

 いかがでしたか?
 少しは参考になりましたでしょうか?

 詳しくはNETで「高額医療費控除」を検索して下さいね。
 では、また、、、。

   コロナに負けるな!

  スタミナつけてね!

 

8 病気で死ぬかもしれない3

 8 病気で死ぬかもしれない3

 

      f:id:tankuro03nkuro0502:20210529171416g:plain

   tankuroです、こんにちは。
   前回の続きです。

 

  ◆◆ 病名は「不安定性狭心症」で、手術名は「経皮的冠動脈

   ステント留置術」でした。

   要するに胸痛の不安定狭心症の疑いで、緊急心臓カテーテル

   検査・手術でした。◆◆

 

  ◆◆ ICUには完全看護で3日間入っていました。

   経過は昼夜がわからない日が続きましたが、日に日に回復して

   ゆきました。

   右手に固定されていた大きな木の板が外れて動かす事が楽になり、

   よく時には動脈に直接挿入されていたチューブが外され、左手の

   点滴が1本減り、その翌日にはまた減り、その翌日には、また

   減った頃、息◯のチューブも外れました。◆◆

 

  ◆◆ 何がキツかったと言うと、痛みもありましたが、水が

   飲めないことでした。

  1日目は完全にダメでした。

  2日目は一日100c大丈夫になり、その制限は徐々に解除され

  ましたが、ペットボトル1本が飲めるようになったのはICU

  出て2日も経ってからでした。◆◆

 

 ◆◆ 自分の意識とは反比例して、体力がここまで落ちる

   のかと驚かされました。

   ベットに上半身が起こせるようになり、尿瓶が使えるように

   なり、移動に車椅子が用意され、1歩も歩かせてもらえ

   ない状態でした。◆◆

 

 ◆◆ そして、知れからはICUを出て徐々に歩けるようになり

  ましらが、病室内の移動はOK、病棟内の移動OK、同一階の

  移動OK、入浴OK、1階の売店に買い物OKと体力の回復に

  合わせてドクターの許可をいただきました。

  そこまで10日以上経っていましたが、もどかしい毎日でした。◆◆

 

 ◆◆ ここまで長文になって説明させていただきましたが、

  本題はこれからです。

  人は心臓が傷つく事によって、本当に体力を奪わあれます。

  普通うに歩くことが驚くほど出来なくなるのです。

  健康って大事だとつくづく思い知らされました。◆◆

 

 ◆◆ 入院計画は14日でした。

  10日が過ぎる頃にリハビリが始まりました。

  この病院はスリッパは禁止で、スニーカーを履くことが義務付け

  されていました。

  リハビリには指導者がついてくれました。

  30歳初めに見える可愛らしい女性でした。

  結構気に入っていました。◆◆

 

 ◆◆ 自分では全然歩けるし、運動もできると思い込んでい

  ましたが、それが全く出来なくなっていました。

  まずは壁に向かって屈伸や片足でバランスととる運動から

  始まりました。

  彼女に感心したのは、世間話で心をとらえ、優しく接して

  くれたことです。

  もう少し若ければアタックしているかもしれません。

  でも話によると既婚者でした。◆◆

 

 ◆◆ 健康って本当に大事だと思い知らされました。

  体力は徐々に回復しました。

  予定通りに退院できましたが、◯◯さんから教わったように

  日々ウォーキングから頑張る日々から始まりました。◆◆

 

 ◆◆ でも、歩けないのです。亀を意識しながら慌てず

  ゆっくりと、、、。

  500m 先のコンビニに行くのもやっとでした。

  そこで、コーヒーを買って飲み、休憩をとってから帰路に

  つきました。◆◆

 

 ◆◆ そんな日々を送り、次の目的は1km先のコンビニで

  新聞とコーヒーを買って休憩することでした。

  そこまで出来るようになったのは、さらに2週間を要しました。

  体重は入院前が86kgありましたが、退院後は76kgに

  なっていました。◆◆

 

 ◆◆ 体力や筋肉が落ちたのは納得がいきます。

  皆さんもダイエットも大事ですが、健康が一番だと思い

  お話ししました。

  ちなみに大手術を含めた費用が気になりますよね。◆◆

 

 ◆◆ 私も気になりますが、知りません。

  「高額医療費控除制度」ってご存知ですか?

  「限度額認定証」の発行が受けられます。

  この認定書を会社依頼で保険組合に発行してもらうと、大体

  普通の給料を受けている人は病院で¥44000以上支払う

  ことはありません。

  勿論、差額ベット代金や食事代金は覗かれます。

  参考まで、、、。長いお付き合いありがとうございました。◆◆

  おしまい。

 

7 死ぬかもしれない体験  2 

 7 死ぬかもしれない体験   

  tannkuroです、こんにちは。

 

   f:id:tankuro03nkuro0502:20210529171250g:plain

 

  ◆◆ 昨日の続きです。大病を患う事は誰にもあります。

  そんな体験談を読んで、何かのためにして頂くと幸いです。

  では、気楽に楽しんでくださいね。

  
    ◆◆ 病院に着くとすぐに車椅子に乗せられ、救急治療室に

   運ばれました。

   それからはまな板の鯉です。

   そこには8人ぐらいいたと思います。

   近づいてきたドクターに症状を聞かれ、何とか説明できました。◆◆ 

 

  ◆◆ 名札をのぞくと例の〇〇と書かれていました。

   小柄な幼い顔立ちのドクターでした。

   うん? 大丈夫だっけ?、、、。

   次に見るからに助手らしい人か視界に現れ、連絡先など

   尋ねれられ、すぐ私の携帯を渡されました。

   なぜか機動力のある息子の嫁に電話しました。

   嫁はすぐに行くと言う返事でしたが、隣接市から車で来る

   ので1時間はかかるとぼんやり考えていました。◆◆ 

 

  ◆◆ 〇〇ドクターが1粒のクスリを持って再度登場しました。

         本当に喋り方まで童顔です。

   「これニトロ。舌の下に入れてみて」と言って手渡してくれ

   ました。

   私は指示通りにそれを口に含みました。◆◆ 

 

  ◆◆ ドクターが心筋梗塞の疑いがあるのでカテーテルを右手から

   入れる手術をすると説明を受けました。

   するとどうでしょう?

   その説明の数分で、薬がきいたのか痛みが少し緩和しました。

   ドクターはそれを確認するとスタッフに合図しました。 ◆◆ 

 

  ◆◆ その合図で一斉に4人かかりで手術着に変えられました。

   そして、さらにストレッチャーを横付けして、よいしょとばかり

   に私を乗せて出発しました。

   手術室では専門の看護師さんが、元気よく引き継いでくれました。

   まだ到着して30分も経っていません。

   当然誰も親族は到着していません。

   不安が一杯です。◆◆ 

 

  ◆◆ まな板の鯉は、手術台に移されました。

   ドラマで見る照明が眩しかったのを覚えています。

   グリーンのなんというのでしょうか?シーツのような物で

   視界を遮断されました。なすがままです。◆◆ 

 

  ◆◆ 麻酔医らしい人が右腕に消毒をして、麻酔を打ってくれ

   ました。局部麻酔?

   それも腕1箇所だけ?

   カテーテルってそこから私の心臓に行くんだよね、、、。◆◆ 

 

  ◆◆ それから5分もたたないうちに、私の右側に〇〇ドクターが

   にこやかに現れました。

   幼い!実年齢がわからない?

   私の右腕をさすりながら「もう感じませんよね。では、始めま

   しょう」、、、。◆◆ 

 

  ◆◆ 手術が始まりました。

   痛みはありません。いえ、感じません。

   布一枚が私の目前にあり、何が起こっているのか見ることは

   できません。

   ただ、何かが心臓に向かって進んでいくをなんとなく感じて

   いました。

   時々看護師さんが、ご機嫌伺いに声をかけてくれました。

   意識ははっきりあります。眠りたかったな、、、?

   長い時間が過ぎました。◆◆ 

 

  ◆◆ 30分以上過ぎた頃に、かなりドクターの苦悩な声を

   聞いた覚えがあります。

   カテーテルがうまく進まないのでは、、、。

   「うん?ふ~っ」

   「入れ替えます」

   なっ、何を?、、、。

   時々天の声がスピーカーを伝わって聞こえることもあり

   ました。◆◆

 

  ◆◆ 長く感じました。

   多分、2時間くらい経ったのでしょうか?

   「よしここまでにしよう!」と天からの指示がありました。

   終わったのか?大丈夫だったのかな?

   その声に不安を覚えました。◆◆ 

 

  ◆◆ そこから「減圧します。5、4、3、2、1」とカウント

   ダウンが始まりました。

  「なになに?」それが少しの時間を挟んで3回ありました。

   看護師さんの「終わりましたよ」の言葉で安堵した私は、

   手術室を出て、ICUに運ばれて行きました。◆◆ 

   

  ◆◆ その頃にはW嫁や孫が到着していました。

   私はICUに着いた自分をよく観察しました。

   右腕には分厚い板に固定せれ、包帯をぐるぐる巻にして、

   1本のチューブが機械に繋がれていました。

   左手には点滴が4種類流れていました。

   そしてもう1本私の息◯に繋がれていたのは内緒です。

   長くなりましたので、つづく、、、。◆◆ 

6 病気で死ぬ思い

 6 病気で死ぬ思い 1

   f:id:tankuro03nkuro0502:20210529171134g:plain

  tankuroです、こんにちは。
  私が最近思いも寄らずに大病をしたお話をします。
  あくまでもブログですので物語の様に書かせて
  いただきます。
  お気楽に付き合ってくださうね。◆◆

 

  ◆◆ 2年ほど前のお盆が近づいたある日、久しぶりに余裕が

     できたので、原チャリで墓参りをすることにしました。

   今考えれば無謀ですが、車で30分くらいの距離なので
   途中休憩
すれば大丈夫だろうと思い決行しました。◆◆

   ◆◆ 山奥の村営の墓地で親父が初期に買い求めたので
    入り口
すぐに墓地はありました。

  最近では兄が膵臓癌で2年前に他界しましたので、ずっと
  お参りに
 行けなかった事が気掛かりでした。
  墓参りは往復2時間強を
費やしました。

       が、無事に帰宅できました。

  でも異常に疲れたので、もう絶対に原チャリでは行くまいと

  決意しました。◆◆

 ◆◆ それから1時間もたたないうちに徐々に背中の痛みと

  呼吸が苦しくなっていくのを感じました。

  なんだろう?ベットで横になろう。、、、。

  痛みがかなり辛くなってきました。

  寝ても座っても、2階まで歩いて行っても治る気配が全く

  ありません。

  なんだろう?皆目検討もつきません。◆◆

 ◆◆ 嫁が会出中でしたし、誰もいません。

  思いついたのが息子の嫁に電話する事でした。

  翌日にうちにくる約束をしていたので、それの断りの連絡の

  つもりで電話しました。

  嫁は救急車を呼べと言いましたが、ちょっと気が引けました。

  さっきよりほんの少し痛みが治った気がしたので、比較的

  空いているクリニックに診療してもらうから大丈夫と伝えて

  電話を切りました。◆◆

◆◆ 原チャリに乗ってクリニックに行きました。

      痛みはありましたが、なんとか運転できました。

  クリニックで受付をして20分ほど待って診察室に入り
  ました。◆◆

◆◆ いつもの年配のご婦人の院長が診察してくれました。

  状況を説明すると院長は「すぐそのベットに寝て動かないで」

  と指示してくれました。なんだろう?

  どうなってるのだろう?と考えるより痛みが優先しました。◆◆

◆◆ 院長はそれより老齢の紳士と会話が始まりました。

 「救急車を呼びましょう。〇〇病院ならすぐに診てくれるますから」

 「うん。他に近くに大きな病院はあるでしょ。そこはダメなの?」

 「すぐにカテーテルをしてくれるのは〇〇病院しかないのよ」

 その後の会話で男性は院長のご主人で〇〇病院の元院長と気付き

 ました。◆◆

◆◆ 「わかった。電話してみるよ」全て聞こえます。

 でも、質問もできる状況ではありません。

 「私だが、循環器に回してくれ!おっ、〇〇くんか?今日は〇〇先生

 はいるか?いない?心筋梗塞の疑いのある患者を送りたいのだが、

 オペはできるな。そう、誰がいるんだ?〇〇?それしかいないのか?

 しょうがないな。それでは救急ですぐ送るからよろしく!」◆◆

 

 ◆◆ えっ、心筋梗塞?救急車?そんなに悪いの?、、、。それから

  院長が近くやってきて、病状の疑いと救急車で〇〇病院に搬送する

  ことなど詳しく説明してくれました。

  でも、全部聞こえてましたよって言える状態ではありません
  でした。◆◆

◆◆ 10分ほどして、救急車のサイレンが響いてきました。

   救急隊が手際よく私をストレッチャーに乗せれくれました。

   そんな私に院長は「頑張って」って励ましてくれました。

  「ありがとうございます」と律儀な私は痛みを堪えてお礼を言い

  ました。

  10分の道のりでした。

  東名高速に近いその〇〇病院はよく患者が死ぬと言う噂を多く耳に

  した記憶が頭をつっつきました。◆◆ つづく