5 しまった? 再発、、。放射線治療
5 しまった? 再発、、。放射線治療
こんにちは、tankuroです。
病気にはなりたくないですよね。
糖尿病の基礎疾患があり、前立腺癌の
全摘出後しばらくしてからの話し
です。
何かの参考になればと思い書いています。
でも、気楽にご覧くださいね。
◆◆ あれから1年が過ぎて定期検診に行ってきました。
その病院の泌尿器科は1年ごとにドクターが変わりました。
「すみません」のドクターはもういません。
良い人だったのに。◆◆
◆◆ いつも様に採血と検尿を終え、待合室で待機しました。
その採血の結果が出るのに1時間ほど要し、さらに30分
ほど待たされて診察に呼ばれます。
最近は個人情報保護の為か、掲示板に自分の受付番号が
表示され、自ら診察室に入るシステムです。◆◆
◆◆ 新しいドクターからその日の採血の結果の説明を
受けました。
前立腺癌摘出手術後しばらくは転移もなく、PSAの値が
0.001と最低値が続いていましたが、今回その数値が
上昇傾向が著しく再発の可能性があるとの診断でした。◆◆
◆◆ 驚くばかりで、空いた口が塞がりません。
ドクターによると上がり始めたばかりだから放射線
治療が一番望ましいとの事でした。
また、会社を休まなければならない、、、?◆◆
◆◆ 気持ちは激しく揺れました。
話によると、この大きな病院でも放射線治療は行って
おらず、紹介状を書くので徒歩7分ぐらい離れた大学病院に
診療を受けて下さいとの事。
保険適用にはなるが、平日ほとんど連続で通院して治療を
受けるらしいのです。
それも40日から50日くらい、、。
私は家族に相談せずにその場で決断しました、
まだ、生きたいからです。◆◆
◆◆ 1ヶ月後に大学病院で放射線治療が始まりました。
通うのにバスは1時間に1.2本程度で不便なのを理由に
ピカピカの赤い原チャリを買いました。
価格を抑える為、10キロも先のバイク専門店で購入し、
20年ぶりの運転に悲鳴を上げました。内緒です。◆◆
◆◆ まずは担当医と面談で、治療計画を伺いました。
治療予定は45日間んで、平日はほぼ毎日でした。
当然、有給をフルに使用して休暇を取得して臨みました。◆◆
◆◆ 診察に引き続き、検査室でレントゲン投影をして
の測定が始まりました。
レントゲンを放射する際に必要な個人別の腹部のガードを
作成する為と説明を受けました。
その日は約1時間で終了しましたが、費用がその日だけで
保険が効いても¥25000も掛かりました。
その先が恐ろしく思えてなりませんでした。◆◆
◆◆ その2週間後から本格的に放射線線治療が開始
されました。
受付に進み名前を名乗ると、検査着に着替えるためロッカー
室に案内され一通りの説明を受け、着替えました。
その後廊下にベンチがいくつか並んだ待合場に座って
待機しました。◆◆
◆◆ 放射線投影室は、事務詰所を挟んで2箇所ありました。
言うまでもありませんが、私は目を丸くして患者の流れを
観察しました。
患者は詰所で名前を呼ばれ、投影室に消え、20分ほどで
安堵顔で出て来てロッカー室に消えました。◆◆
◆◆ いよいよ自分の番が来ました。
放射線投影室は一度90度通路を曲がり10畳ほどの広さの
中央に寝台があり、頭上に投影機が設置されていました。
部屋の奥にはガラス張りの動作室がありました。◆◆
◆◆ 技師に案内され、寝台に上がりました。
すぐにアーチ状のガードを被せられました。
照明が消され暗転になると、放射が始まりました。
ブザーの合図で、、、。方向を変えながら4度4箇所から
狙い撃ちでした。
正味10分ほどで治療は完了しました。
全く痛くはありません。◆◆
◆◆ そんな私が恐れていた会計に受付へと進みました。
大体毎回診療費を¥5000強支払い、翌日の予約時間を
確認して帰る毎日でした。
費用の45の掛け算をすると身震いがしました。
たまに検査が入るとゆうに¥10000を超える日もざらに
ありました。
有休の消化の為給料は支給されているのですが、到底支払
えるものではありません。
入院一時金が見る見る減って来ました。
後日生命保険の支払いを請求したのですが、入院ではないの
で検査費¥50000しかもらえませんでした。◆◆
◆◆ そんな貧乏な私に、あるのは時間ばかりでした。
午後はほぼ毎日AMAZON PRIMEで映画やドラマ三昧でした。
面白かったなぁ。◆◆
◆◆ 予定の45回の放射線投影を終え、約2ヶ月の診療が
無事終了して会社復帰を果たしました。
万年人手不足だったので同僚には大歓迎を受けました。
PSAのマーカーの値は診療前とほとんど変わりありません
でしたが、担当医曰く半年後ぐらいに良くなるはずです
との事でした。◆◆
◆◆ それから約8年が経過した現在は、ホルモン治療と
投薬を継続して3ヶ月ごとの検診を受けています。
ちなみに現在のPSAの値は0.006です。
しかし、、、。
ホルモン注射1本が¥18000、薬が¥8000かかっています。
命は高い買い物です。
ちなみに、放射治療を受けた翌年に高額医療控除を税務署に
申告しました。
¥15000ほど帰ってきた記憶があります。◆◆
この申告は正解で正解ではありません。
このことはまたお話しします。おしまい。
初めての大病になるまで 4
初めての大病になるまで 4
こんにちは、tankuroです。
前立腺癌の摘出手術受けた後しばらく
ICUに入ってました。
そこからの続きです。
◆◆ 私はICUの個室でただただ天井を見つめていました。
時々交代で家族が見舞ってくれました。
主治医の顔も頻繁に現れました。
お腹にはドレーンと呼ばれる管が何本も繋がれていました。
左右の腕には薬剤が点滴で流れていました。
発熱で意識も朦朧としていました。
何が我慢できないかと言うと、飛んでる意識の中で尻っ
ぺたが焼けるように痛い事でした。
痛い!お尻をつけてられない!浮せても痛い! ◆◆
◆◆ 水も飲めず、痛みも取れず、昼夜の感覚もなく、時間が
遅く遅く流れていました。
助けて、お尻の痛みを何とかして!と叫びたくなりました。
主治医はかなり頻繁にやってきては、移動式レントゲンで
撮影をしていました。
説明もなく、無言で、、、。◆◆
◆◆ 3日目には、やっと痛みも大分減って背中もお尻も
ベットにつける事が出来るようになりました。
お腹のドレーンの数も少しずつ減っていき、水も少量なら
飲ませてもらえました。
4日目には一般病棟の集中看護室に移動になり、記憶も
整理出来るようになりました。◆◆
◆◆ その頃に主治医から説明を受けました。
「前立腺癌は全て摘出できました。問題はありません。
ただ、出血が多かったので自己血液800ccは使い切り、
あと800ccを輸血しました。
それが心臓に負担となり少し肥大しましたが、現在は
レントゲンで見る限り正常に戻っています」成功しました
の一言は聞けません。◆◆
◆◆ あの主治医のお詫びはなんだったのでしょう?
ドクターに問いただす事は出来ませんでした。
糖尿病が根幹にある為、血糖値をコントロールする為に
通常より2週間も早めに入院して体調を整えました。
そんな事も影響していたのでしょう。きっと。◆◆
◆◆ 2週間後に主治医がレントゲンを見ながら、切断した
尿管が接続できているのを確認して、息子のあれを抜いて
くれました。
その後は順調に回復し、3週間後に無事に退院しました。
退院保険会社2社から入院保証の一時金を400万円頂いた
事は内緒です。
しかし、それと交換に括約筋を無くした私は、水道を
ジョロジョロと流すような尿のダダ漏れと戦う生活が
待っていました。◆◆
◆◆ 退院後2週間は自宅で療養をしました。
ダダ漏れと日常生活を回復するためのウォーキングに
明け暮れました。
厚いトレーニングパンツの下に350ccの尿パットを装着して
生活しました。
尿パットは1時間しか持たないところからのスタートでした。◆◆
◆◆ 生活のため出社を再開しました。
事務職のため2時間に1回のペースで誰にも言えずにトイレで
静かにそれを交換しました。
時にトレイニングパンツをきつめに履いているせいか、股擦れ
にも悩まされました。◆◆
◆◆ 現在でも尿パットは、ちょい漏れの為コットンのボクサー
タイプのパンツに装着しています。
長くなってしまって申し訳ないのですが、自覚症状のない
前立腺癌の早期発見にご助力していただきましたドクター
各位には心より厚く感謝いたします。
「ありがとうございました」◆◆
つづく
長くてすみません、現在は5年以上経過してPSAは0.006です。
3ヶ月に一度通院して、ホルモン治療を受けています。
1回の診療費は18000円(ホルモン注射1本含む)に投薬代が
ジェラミックで8000円かかります。
命には変えられませんよね。
詳しくはまた今度です。
初めての大病になるまで 3
初めての大病になるまで 3
こんにちは、tankuroです。
前回に引き続き大病になって行く話しを
させて頂きます。
◆◆ 扁桃腺の切除手術も無事に終わり、年を跨いだ
そんなある日、泌尿器科の定期検診に向かいました。
担当の〇〇先生からPSAの値が上昇しているので検査が
必要ですと言われ、まず触診する事になりました。◆◆
◆◆ 先生が肛門から指を入れ、5cmほど進んだ辺りを
触診しました。
栗のような感触があると癌の疑いがあるとのことでしたが、
それが認められたようです。
後日内視鏡の検査を受け、さらに検体検査で1泊の
入院を予約をしました。◆◆
◆◆ 検体検査は手術室で麻酔をして、肛門から針を通し検体を
採取するものでした。
麻酔が効いていたので、痛くはありませんでしたが、どすん
ドスンと振動する感じがありました。
それも13回でした。数えました。
その日に初めてジュニアに管が通り、排尿するシステムが
挿入されました。
麻酔が切れた頃には、幹部ではなく、そのジュビアの
接合部分がひどく痛くなりました。
後で看護師さんに効いたのですが、尿道を空気で広げ管を
差し込んであるとのことでした。痛い!!◆◆
◆◆ 痛みで眠れぬ夜を過ごし、午後にはジュニアの
管もはずれ退院する事が出来ました。
結果は2週間後の診察の時に知らせてくれる事に
なりました。◆◆
◆◆ 審判の下る日がやってきました。
家族の方も同席してくださいと注文がついていたので、
結果は目に見えていました。
カミさんとどう言うわけか息子が同席しました。
悪性の組織を持つ初期の前立腺癌でした。
5年生存率は、、、。怖くて聞き取れません。
多分長くないのでしょう。◆◆
◆◆ 先生曰く、初期の前立腺癌なので全摘出手術を
早く行ったほうが賢明ですとの事。
さらに、膀胱から繋がる尿管を切除して、前立腺と
一緒に精嚢や精管などの周囲ごと摘出するほか、
肛門近くの括約筋も摘出するとの事でした。
私はうなづいて、ただただ聞くだけでした。
急に先生は顔をしかめてさらにこう言いました。◆◆
◆◆ 「言いにくいのですが、ボ〇〇神経も切除します」
「ボ〇〇神経?うそ、嘘でしょう?」と、私は心の
中で叫びました。
「いいえ、大丈夫です。もう使いませんから思いっきり
切ってください!」と突然に答えたのは、息子でした。
私は苦虫を噛みました。◆◆
◆◆ そうこうしているうちに、手術当日がやってきました。
前日から食事を控え、下剤を飲み胃を空にして手術に
望みました。
兄や家族がみんな来ていました。
看護師さんに伴われて、車椅子で手術室に向かいました。
担当医が手術着を着て待っていました。◆◆
◆◆ 手術台に移されるとドラマのように麻酔医が2名
やってきました。
「では、麻酔を打ちます。」という合図で横向きになり
作業が始まりました。
1本背中をさされる微妙な小さな痛みを感じた後、麻酔達は
背中の腰のあたりに何かを通し始めました。
しばらくその作業が続きました。◆◆
◆◆ 「うまくいかになぁ」
「う~ん、そうだな。もう少しにひねってみるか」
小声が静まり返った手術室内では、よく聞こえます。
「まぁ、これでいいか?しょうがない、これで行こう」
全部聴こえています。◆◆
◆◆ 「では、全身麻酔にしますね。楽にしていてください」
ドラマのまんまだと考える間も無く、私の意識は
遠のきました。◆◆
◆◆ 「手術は無事に終わりましたよ」と看護師さんに
声をかけられて私は目覚めました。
それはちょうどガラガラとストレッチに乗せられて
手術室を出る時でした。
「今何時ですか?」と私は開口一番に尋ねました。
答えはまるで覚えていません。◆◆
◆◆ そんな時です。
遠くで主治医の声だけが聞こえてきました。
「本当にすみませんでした」
なになに、どうしたの? なにかあったの?
とその時は疑問に思う余裕はありません。
その言葉だけが記憶に残りました。◆◆ つづく
長くなりましてすみません。
病気っていつくるかわかりません。
備えておく必要がありますね。
そのお話は今度させて下さいね。
3 初めての大病になるまで 2
3 初めての大病になるまで 2
こんにちは、tankuroです。
今回の体験談は経緯から経過、手術、
その後と4部作になります。
笑って楽しんでくださいね。
えっ、深刻じゃないのかって?
人生それだけでは、、、。
では、続きを始めます。
◆◆ それから入院生活が始まりました。
以前に入院をした時のような楽しみは全くありませんが、
体半身の痺れが良くなれば、、、いや、奴から開放
されれば、、、。と考えるばかりです。◆◆
◆◆ 私の担当医は〇〇先生でしたが、助手の女性研修医が
よく面倒をみてくれました。
検血・レントゲン・MRI・基礎代謝測定などいろいろな
検査を次から次へと、料金が心配するほどしてくれました。
でも、糖尿病の基礎疾患以外には、原因がわかりません。◆◆
◆◆ 体力が回復して、痺れもかなり良くなったので、院内の
ウォーキングなどの運動も進められました。
そして2週間が過ぎた頃でしょうか、今までに行ってきた
検査の中間報告をしていただける事になりました。◆◆
◆◆ 先生曰く、基礎疾患の糖尿病を治療する事が一番に
挙げられました。
続いて、無呼吸がかなりの頻度であるそうで、耳鼻咽喉科の
専門診断を受けるように勧められました。
もう一点、PSAというホルモンの値が少し上昇気味なので、
前立腺の異常があるかも知れないので、これも受診するように
勧められました。◆◆
◆◆ その頃には、入院中にそれぞれの受診日も決まり、外出許可
もいただけたので町中をウォーキングすることができました。
以前入院した頃を思い出しました。
楽しくて仕方ない毎日になっていきました。
看護師さんが呆れるぐらい、、、。◆◆
◆◆ 耳鼻咽喉科の受診では、検査の結果人より扁桃腺が大きく、
体重過多のせいで口腔を狭めていると言う診断でした。
年内には再入院して扁桃腺を切除することに決めました。◆◆
◆◆ 泌尿器科では、PSAのマーカーがまだ癌である事を示す
値にはまだいっていないので、1ヶ月事に通院しながら経過観察
する事になりました。
その頃には、ウォーキングが絶好調で、色々な街のコースを
あちこち歩いて楽しみました。
勿論、体力回復が目的ですよ、、、。◆◆
◆◆ そうこうしているうちに入院してから5週間が過ぎて、
痺れもほぼ回復していました。
感謝感謝の退院でした。
会社にも振袖レンタルの責任者を降りる事の了解を事前に
頂いていました。
奴とも再会は、「元気で何よりだね」の言葉と、降格人事の
給料8万円減でした。
さらにその半年後には一般職になり、さらに8万円減額に
なりました。◆◆
◆◆ 職場は以前から経験のある宴会の予約業務になりました。
元部下と一緒に3交代でシフト勤務になりましたが、精神的には
十分でした。◆◆ つづく
費用は前回の入院と同様で、公休と有給の消化で基本級は頂け
ました。
入院費用は生命保険の入院給付金でほぼトントンでした。
これに関しては、違う方法が別にもう一つあった事を
知りませんでした。かなり大事な事です。次回に、、。
2 初めての大病になるまで 1
2 初めての大病になるまで 1
こんにちは、tankuroです。
今回の体験談は経緯から経過、手術、
その後と4部作になります。
笑って楽しんでくださいね。
えっ、深刻じゃないのかって?
人生それだけでは、、、。
◆◆ 私が50歳をだいぶ過ぎてバンケットの責任者を
していた頃のお話です。
会社は大手一流企業の資本から外資系資本にかわり、
さらに遊戯系資本になりました。
利益優先の会社で一部軍隊式教育がされていました。◆◆
◆◆ 経営が変わって半年が過ぎようとするある日の事、
GMに呼び出されました。
今度新しく成人者向けの振袖レンタル店をホテル内に
儲けるので責任者になれとのご命令でした。
まだ、本社との連携が充分に取れていない頃の本社から
の指示でした。◆◆
◆◆ レンタル店?番頭?成人者?何故自分が選ばれた
のかは理解が行きません。
でも、宮使いの身です。断ることもできません。
それは奴からの今で言うパワハラを受け続ける結果に
なりました。◆◆
◆◆ 振袖のレンタル店は理に叶っていました。
ホテル内には美容室も写真室も設備が婚礼用に設けれて
いるからです。
一度に着付けられ写真を撮れるのです。
当然それが売りになりました。◆◆
◆◆ 立ち上げるのには、かなりの勉強が必要でした。
京都や新潟にある仕入れ先の問屋まで出向き品定めをしたり、
触った事もなかった振袖を広げたり畳んだり、柄や生地の
セールストークまでも必死で覚えました。
開店まで半年しかありません。
夜遅くまでの地獄の日々でした。◆◆
◆◆ 経営方針や試算は本社の指示で何度も変わりました。
一番は奴のパワハラが私の体を崩壊へと導きました。
奴曰く「1000本ノックで鍛えてやっている」と他の社員に
豪語していました。100本よりかなり多いじゃないか?!
と言えればよかったのですが、、、。◆◆
◆◆ 深夜までの今日中に、適正者のアドレスを確保しろとか、
本社関連の施設を全部歩いてセールスしろとか要望が
エスカレートする一方でした。
挙げ句の果てには、オープニングに商店街を、振袖を着せた
女子社員を大名籠に乗せて、10数名で担いで行進すると
いう暴挙でした。
全社を挙げての取り組みです。
勿論、私は渦中の人です。◆◆
◆◆ 商店街を大名行列で行進するには、当然警察の申請が
必要でした。
駅前でのチラシ配布の申請はそれまでこの為に何度も行って
いましたが、申請はさらに大変でした。◆◆
◆◆ 大名籠の先導と後方見張りに一人づつの配置と、道を
横断する敬語がさらに左右一名づつ必要でした。
振袖販売と何の関係があるのか疑問が沸騰していました。
しかし、当日は予想に反して問題なく終えることができま
したが、私の心労は計り知れません。◆◆
◆◆ お店がオープンする頃から体調の異常を感じ始めました。
まっすぐ歩けない歩行困難やくらみ、顔の半分が痺れて
いました。原因はわかりません。
一番は精神的に追い込まれていた事かも知れません。◆◆
◆◆ 直属の上司には相談していましたが、日和見な性格で
親身になってはくれません。
「あっ、そうなのお大事にね。」てな具合です。
もうこれ以上続けてれば必ず死ぬと思いました。
死んでやる!!◆◆
◆◆ そんな訳には、いかない!
鞄に荷物を詰めて病院へ行こうと一代決心をしました。
市内の比較的大きな病院なら入院できるだろうと勝手に
思い込んでいました。◆◆
◆◆ 翌日、鞄を持って病院に受診しに行きました。
たまたまみてくれた〇〇先生は、「入院の荷物を用意して
診察に来る人は初めてだ」と笑っていましたが、後々に
良い先生に遭遇した事を感謝しました。
診察後だいぶ待たされましたが、無事に病棟に案内
されました。◆◆
◆◆ 病室は6人部屋で右側の3つ並ぶベッドの真ん中でした。
コンディションは最悪でしたが、そんな事は言ってられません。
やっと現実から逃避できたのですから。◆◆ つづく
1、初めての大病
ご挨拶
初めまして、tankuroです。
皆さんのこれからの長い人生に少しでも
お役に立てるように頑張ります
これから徐々に投稿を増やしていきます。
しばらくは工事中と思ってくださいね。
42歳の時に初めて病と向き合う様に
なりました。
病気に対してどう備えていけばいいのか?
私の体験談を面白おかしく感じてくださいね。
対処法は後々案内図でお示しします。
1、初めての大病
◆◆ 私が初めて病気と対面した話をさせ
いただきます。
2度目の厄年つまり大厄の42歳の話になります。◆◆
◆◆ 本当に大厄ってあるんですね。
体調が悪化したのが私が42歳の大厄でした。
厄年を少し補足しますと、男性が25・42・61歳、
女性が19・33・37・61歳が大厄、その前後の年が
前厄・後厄と言われてます。
それぞれ3年間は注意したほうが良いですよ。◆◆
◆◆ 私の前職はホテルマンです。
バンケットや宴会予約などの責任者や窓際を
経験していました。
バンケットの責任者をしていた時です。
足裏や尻ペタにヒリヒリする痛みに悩んでいました。
立ってもも座ってもいられない痛みでした。
原因は自分では思い当たりません。
ただ、体重は不摂生で95キロはありました。
今思えば恐ろしい体重です。◆◆
◆◆ そこで知り合いから、山間部にある県立の
大きな病院の受診を勧めれました。
藁をも掴むつもりで、まずは受診しました。
栗が落ち始めた頃です。◆◆
◆◆ 最初の受信で、糖尿病の疑いがあるとドクター
に告げられました。
その病院は250床もあり、リハビリ施設と温泉が
ついていました。
友人から3週間程度の検査入院をする事を勧めら
れていたので、ドクターに無理矢理に入院をお願い
しました。◆◆
◆◆ 1週間後に入院する事ができました。
4階にある4人同室の大部屋でした。
1日に2度のラジオ体操付き付きです。
同室者に話を聞くと毎年体調管理の為に、リハビリ
中心に入院する人が多いとのことでした。◆◆
◆◆ 同室者に同じ頃に入院した同じ年頃の
”しんちゃん”がいました。
病気と入院計画がほぼ同じだったので、ほとんど
彼と一緒に行動しました。
なんだか高校生活を思い出しました。
林間学校に来たみたいです。◆◆
◆◆ 入院日から1週間は検査・検査とたまに勉強
でした。
検査は朝一番に糖を注射して、1時間おきに血糖を
測定するものや、1日に何度も尿をとって検査する
ものでした。
もちろん、血液検査や心電図やレントゲン・MRI
などもメニューにありました。◆◆
◆◆ リハビリ施設らしく、早い時期に身体測定も
ありました。
辛かったのは、初めての1300カロリー制限の食事
から来る空腹でした。
栄養指導とリハビリのための運動のカリキュラは、
すぐ手元に来ました。
もちろんほとんどしんちゃんと一緒でした。◆◆
◆◆ 1週間はあっと言う間に過ぎました。
検査はほとんど終了して、残るは健康状態に戻す
投薬と運動が中心になりました。
その為の外出も許可されました。
そこからは信じられないくらいの地獄からの
天国でした。◆◆
◆◆ リハビリの為の運動の授業以外は自由時間が
いっぱいありました。
その時間は歩ける患者はハイキングやウォーキング
に時間を費やせました。
まるで高校生活が戻って来たみたいでした。◆◆
◆◆ 1日に2度ハイキングにしんちゃんと
出かけました。
ずっ~と坂道のハイキングコースを辿ると1km
ほどの先に山寺がありました。
最初は二人とも体重が重力に逆らい、辛い坂道と
動悸を経験しました。
それが徐々に体が慣れてゆき、スキップができる
までになりました。◆◆
◆◆ そのルートは病院中心に先輩たちが開拓した
ものが色々ありました。
お腹が空く以外は本当に薔薇色の天国でした。◆◆
◆◆ 温泉は大浴場があり、女性職員付きでした。
2週間が過ぎた頃に恥ずかしがり屋の自分にも
決心ができ、利用することにしました。◆◆
◆◆ まずは、利用書に病棟・病室名・氏名・時間を
書いて脱衣所に向かいました。
入浴の準備が整うと順番に入室が許されました。
浴室は20人が楽に入れるくらい広かった様に記憶
しています。
そこにも係りの女性が1名目を光らせていました。◆◆
◆◆ 私は先に着席できるシャワーの前で体を洗い
ました。
久しぶりの入浴にワクワクしました。
洗った体をシャワーで流し、いよいよ浴槽に入ろう
とした時です。
「まった!」がかかりました?
なに、なにごと?、、。
自分の事?何かした?と心の声が嘆きました。◆◆
◆◆ 「お尻に泡がいっぱいついてるよ」と指摘される
より早く湯船の温水をお尻にいっぱいかけられました。
「はい、もう大丈夫!入っていいよ!」
「ありがとうございます」恥ずかしい。。。
でも、ゆったり湯船につかってご満悦でした。◆◆
◆◆ 3週間の延長をドクターと会社に承諾をいただき、
入院生活をエンジョイしました。
会社に行きたくない!が、正直な気持ちでした。◆◆
◆◆ ちなみに、退院の特には体重が85キロになって
いました。◆◆ おわり
現実の話し
1、入院に数は40日でした。2ヶ月に跨いだので次のように
計算しました。
一月 公休9日X2 残数は22日有給使用
よって,入院中も基本給はいただけました。
病院に支払ったのは、1日約¥5000で40日分プラス検査
費用でした。
これは、日生の保険でほぼタントンでした。
生命保険がこんなに役立つとは初めて実感しました。