tankuro  健康に生きる為の案内図

人生を楽しく過ごす為に必要な事考えます。

5 しまった? 再発、、。放射線治療

5 しまった? 再発、、。放射線治療
 

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 こんにちは、tankuroです。

 病気にはなりたくないですよね。

 糖尿病の基礎疾患があり、前立腺癌の

 全摘出後しばらくしてからの話し

 です。

 何かの参考になればと思い書いています。

 でも、気楽にご覧くださいね。

 

◆◆ あれから1年が過ぎて定期検診に行ってきました。

 その病院の泌尿器科は1年ごとにドクターが変わりました。

 「すみません」のドクターはもういません。

 良い人だったのに。◆◆

 

◆◆ いつも様に採血と検尿を終え、待合室で待機しました。

 その採血の結果が出るのに1時間ほど要し、さらに30分

 ほど待たされて診察に呼ばれます。

 最近は個人情報保護の為か、掲示板に自分の受付番号が

 表示され、自ら診察室に入るシステムです。◆◆

 

◆◆ 新しいドクターからその日の採血の結果の説明を

 受けました。

 前立腺癌摘出手術後しばらくは転移もなく、PSAの値が

 0.001と最低値が続いていましたが、今回その数値が

 上昇傾向が著しく再発の可能性があるとの診断でした。◆◆

 

◆◆ 驚くばかりで、空いた口が塞がりません。

 ドクターによると上がり始めたばかりだから放射線

 治療が一番望ましいとの事でした。

 また、会社を休まなければならない、、、?◆◆

 

◆◆ 気持ちは激しく揺れました。

 話によると、この大きな病院でも放射線治療は行って

 おらず、紹介状を書くので徒歩7分ぐらい離れた大学病院に

 診療を受けて下さいとの事。

 保険適用にはなるが、平日ほとんど連続で通院して治療を

 受けるらしいのです。

 それも40日から50日くらい、、。

 私は家族に相談せずにその場で決断しました、

 まだ、生きたいからです。◆◆

 

◆◆ 1ヶ月後に大学病院で放射線治療が始まりました。

 通うのにバスは1時間に1.2本程度で不便なのを理由に

 ピカピカの赤い原チャリを買いました。

 価格を抑える為、10キロも先のバイク専門店で購入し、

 20年ぶりの運転に悲鳴を上げました。内緒です。◆◆

 

◆◆ まずは担当医と面談で、治療計画を伺いました。

 治療予定は45日間んで、平日はほぼ毎日でした。

 当然、有給をフルに使用して休暇を取得して臨みました。◆◆

 

◆◆ 診察に引き続き、検査室でレントゲン投影をして

 の測定が始まりました。
 レントゲンを放射する際に必要な個人別の腹部のガードを

 作成する為と説明を受けました。

 その日は約1時間で終了しましたが、費用がその日だけで

 保険が効いても¥25000も掛かりました。

 その先が恐ろしく思えてなりませんでした。◆◆

 

◆◆ その2週間後から本格的に放射線線治療が開始

 されました。

 受付に進み名前を名乗ると、検査着に着替えるためロッカー

 室に案内され一通りの説明を受け、着替えました。

 その後廊下にベンチがいくつか並んだ待合場に座って

 待機しました。◆◆

 

◆◆ 放射線投影室は、事務詰所を挟んで2箇所ありました。

 言うまでもありませんが、私は目を丸くして患者の流れを

 観察しました。

 患者は詰所で名前を呼ばれ、投影室に消え、20分ほどで

 安堵顔で出て来てロッカー室に消えました。◆◆

 

◆◆ いよいよ自分の番が来ました。

 放射線投影室は一度90度通路を曲がり10畳ほどの広さの

 中央に寝台があり、頭上に投影機が設置されていました。

 部屋の奥にはガラス張りの動作室がありました。◆◆

 

◆◆ 技師に案内され、寝台に上がりました。

 すぐにアーチ状のガードを被せられました。

 照明が消され暗転になると、放射が始まりました。

 ブザーの合図で、、、。方向を変えながら4度4箇所から

 狙い撃ちでした。

 正味10分ほどで治療は完了しました。

 全く痛くはありません。◆◆

 

◆◆ そんな私が恐れていた会計に受付へと進みました。

 大体毎回診療費を¥5000強支払い、翌日の予約時間を

 確認して帰る毎日でした。
 費用の45の掛け算をすると身震いがしました。

 たまに検査が入るとゆうに¥10000を超える日もざらに

 ありました。

 有休の消化の為給料は支給されているのですが、到底支払

 えるものではありません。

 入院一時金が見る見る減って来ました。

 後日生命保険の支払いを請求したのですが、入院ではないの

 で検査費¥50000しかもらえませんでした。◆◆

 

◆◆ そんな貧乏な私に、あるのは時間ばかりでした。

 午後はほぼ毎日AMAZON PRIMEで映画やドラマ三昧でした。

 面白かったなぁ。◆◆

 

◆◆ 予定の45回の放射線投影を終え、約2ヶ月の診療が

 無事終了して会社復帰を果たしました。

 万年人手不足だったので同僚には大歓迎を受けました。

 PSAのマーカーの値は診療前とほとんど変わりありません

 でしたが、担当医曰く半年後ぐらいに良くなるはずです

 との事でした。◆◆

 

◆◆ それから約8年が経過した現在は、ホルモン治療と

 投薬を継続して3ヶ月ごとの検診を受けています。

 ちなみに現在のPSAの値は0.006です。

 しかし、、、。

 ホルモン注射1本が¥18000、薬が¥8000かかっています。

 命は高い買い物です。

 ちなみに、放射治療を受けた翌年に高額医療控除を税務署に

 申告しました。

 ¥15000ほど帰ってきた記憶があります。◆◆

 この申告は正解で正解ではありません。

 このことはまたお話しします。おしまい。

初めての大病になるまで 4

 初めての大病になるまで 4

 

     f:id:tankuro03nkuro0502:20210527101456g:plain

 こんにちは、tankuroです。

 前立腺癌の摘出手術受けた後しばらく

 ICUに入ってました。

 そこからの続きです。

 

◆◆ 私はICUの個室でただただ天井を見つめていました。
 時々交代で家族が見舞ってくれました。
 主治医の顔も頻繁に現れました。
 お腹にはドレーンと呼ばれる管が何本も繋がれていました。
 左右の腕には薬剤が点滴で流れていました。
 発熱で意識も朦朧としていました。
 何が我慢できないかと言うと、飛んでる意識の中で尻っ
 ぺたが焼けるように痛い事でした。
 痛い!お尻をつけてられない!浮せても痛い! ◆◆

◆◆ 水も飲めず、痛みも取れず、昼夜の感覚もなく、時間が
 遅く遅く流れていました。
 助けて、お尻の痛みを何とかして!と叫びたくなりました。
 主治医はかなり頻繁にやってきては、移動式レントゲンで
 撮影をしていました。
 説明もなく、無言で、、、。◆◆

 

◆◆ 3日目には、やっと痛みも大分減って背中もお尻も
 ベットにつける事が出来るようになりました。
 お腹のドレーンの数も少しずつ減っていき、水も少量なら
 飲ませてもらえました。
 4日目には一般病棟の集中看護室に移動になり、記憶も
 整理出来るようになりました。◆◆

 

◆◆ その頃に主治医から説明を受けました。
 「前立腺癌は全て摘出できました。問題はありません。
 ただ、出血が多かったので自己血液800ccは使い切り、
 あと800ccを輸血しました。
 それが心臓に負担となり少し肥大しましたが、現在は
 レントゲンで見る限り正常に戻っています」成功しました
 の一言は聞けません。◆◆

 

◆◆ あの主治医のお詫びはなんだったのでしょう?
 ドクターに問いただす事は出来ませんでした。
 糖尿病が根幹にある為、血糖値をコントロールする為に
 通常より2週間も早めに入院して体調を整えました。
 そんな事も影響していたのでしょう。きっと。◆◆

 

◆◆ 2週間後に主治医がレントゲンを見ながら、切断した
 尿管が接続できているのを確認して、息子のあれを抜いて
 くれました。
 その後は順調に回復し、3週間後に無事に退院しました。
 退院保険会社2社から入院保証の一時金を400万円頂いた
 事は内緒です。
 しかし、それと交換に括約筋を無くした私は、水道を
 ジョロジョロと流すような尿のダダ漏れと戦う生活が
 待っていました。◆◆

 

◆◆ 退院後2週間は自宅で療養をしました。
 ダダ漏れと日常生活を回復するためのウォーキングに
 明け暮れました。
 厚いトレーニングパンツの下に350ccの尿パットを装着して
 生活しました。
 尿パットは1時間しか持たないところからのスタートでした。◆◆

◆◆ 生活のため出社を再開しました。
 事務職のため2時間に1回のペースで誰にも言えずにトイレで
 静かにそれを交換しました。
 時にトレイニングパンツをきつめに履いているせいか、股擦れ
 にも悩まされました。◆◆

 

◆◆ 現在でも尿パットは、ちょい漏れの為コットンのボクサー
 タイプのパンツに装着しています。
 長くなってしまって申し訳ないのですが、自覚症状のない
 前立腺癌の早期発見にご助力していただきましたドクター
 各位には心より厚く感謝いたします。
 「ありがとうございました」◆◆

 つづく

 長くてすみません、現在は5年以上経過してPSAは0.006です。
 3ヶ月に一度通院して、ホルモン治療を受けています。
  1回の診療費は18000円(ホルモン注射1本含む)に投薬代が
 ジェラミックで8000円かかります。
 命には変えられませんよね。
   詳しくはまた今度です。

初めての大病になるまで 3

初めての大病になるまで 3

 

          f:id:tankuro03nkuro0502:20210527100706g:plain

 こんにちは、tankuroです。

 前回に引き続き大病になって行く話しを

 させて頂きます。

 

◆◆ 扁桃腺の切除手術も無事に終わり、年を跨いだ

 そんなある日、泌尿器科の定期検診に向かいました。

 担当の〇〇先生からPSAの値が上昇しているので検査が

 必要ですと言われ、まず触診する事になりました。◆◆

 

◆◆ 先生が肛門から指を入れ、5cmほど進んだ辺りを
 触診しました。
 栗のような感触があると癌の疑いがあるとのことでしたが、
 それが認められたようです。
 後日内視鏡の検査を受け、さらに検体検査で1泊の
 入院を予約をしました。◆◆

 

◆◆ 検体検査は手術室で麻酔をして、肛門から針を通し検体を
 採取するものでした。
 麻酔が効いていたので、痛くはありませんでしたが、どすん
 ドスンと振動する感じがありました。
  それも13回でした。数えました。
 その日に初めてジュニアに管が通り、排尿するシステムが
 挿入されました。
 麻酔が切れた頃には、幹部ではなく、そのジュビアの
 接合部分がひどく痛くなりました。
 後で看護師さんに効いたのですが、尿道を空気で広げ管を
 差し込んであるとのことでした。痛い!!◆◆

 

◆◆ 痛みで眠れぬ夜を過ごし、午後にはジュニアの
 管もはずれ退院する事が出来ました。
 結果は2週間後の診察の時に知らせてくれる事に
 なりました。◆◆

 

◆◆ 審判の下る日がやってきました。
 家族の方も同席してくださいと注文がついていたので、
 結果は目に見えていました。
 カミさんとどう言うわけか息子が同席しました。
 悪性の組織を持つ初期の前立腺癌でした。
 5年生存率は、、、。怖くて聞き取れません。
 多分長くないのでしょう。◆◆

 

◆◆ 先生曰く、初期の前立腺癌なので全摘出手術を
 早く行ったほうが賢明ですとの事。
 さらに、膀胱から繋がる尿管を切除して、前立腺
 一緒に精嚢や精管などの周囲ごと摘出するほか、
 肛門近くの括約筋も摘出するとの事でした。
 私はうなづいて、ただただ聞くだけでした。
 急に先生は顔をしかめてさらにこう言いました。◆◆

 

◆◆ 「言いにくいのですが、ボ〇〇神経も切除します」

 「ボ〇〇神経?うそ、嘘でしょう?」と、私は心の
 中で叫びました。

 「いいえ、大丈夫です。もう使いませんから思いっきり
 切ってください!」と突然に答えたのは、息子でした。
 私は苦虫を噛みました。◆◆

 

◆◆ そうこうしているうちに、手術当日がやってきました。
 前日から食事を控え、下剤を飲み胃を空にして手術に
 望みました。
 兄や家族がみんな来ていました。
 看護師さんに伴われて、車椅子で手術室に向かいました。
 担当医が手術着を着て待っていました。◆◆

 

◆◆ 手術台に移されるとドラマのように麻酔医が2名
 やってきました。
 「では、麻酔を打ちます。」という合図で横向きになり
 作業が始まりました。
 1本背中をさされる微妙な小さな痛みを感じた後、麻酔達は
 背中の腰のあたりに何かを通し始めました。
 しばらくその作業が続きました。◆◆

 

◆◆ 「うまくいかになぁ」
 「う~ん、そうだな。もう少しにひねってみるか」
 小声が静まり返った手術室内では、よく聞こえます。
 「まぁ、これでいいか?しょうがない、これで行こう」
 全部聴こえています。◆◆

 

◆◆ 「では、全身麻酔にしますね。楽にしていてください」
 ドラマのまんまだと考える間も無く、私の意識は
 遠のきました。◆◆

 

◆◆ 「手術は無事に終わりましたよ」と看護師さんに
 声をかけられて私は目覚めました。
 それはちょうどガラガラとストレッチに乗せられて
 手術室を出る時でした。
 「今何時ですか?」と私は開口一番に尋ねました。
 答えはまるで覚えていません。◆◆

 

◆◆ そんな時です。
 遠くで主治医の声だけが聞こえてきました。
 「本当にすみませんでした」
 なになに、どうしたの? なにかあったの?
 とその時は疑問に思う余裕はありません。
 その言葉だけが記憶に残りました。◆◆ つづく

   長くなりましてすみません。
  病気っていつくるかわかりません。
  備えておく必要がありますね。
  そのお話は今度させて下さいね。

3 初めての大病になるまで 2

3 初めての大病になるまで 2

 

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 こんにちは、tankuroです。
 今回の体験談は経緯から経過、手術、
 その後と4部作になります。
 笑って楽しんでくださいね。
 えっ、深刻じゃないのかって?
 人生それだけでは、、、。
 では、続きを始めます。

 

◆◆ それから入院生活が始まりました。
 以前に入院をした時のような楽しみは全くありませんが、
 体半身の痺れが良くなれば、、、いや、奴から開放
 されれば、、、。と考えるばかりです。◆◆

 

◆◆ 私の担当医は〇〇先生でしたが、助手の女性研修医が
 よく面倒をみてくれました。
 検血・レントゲン・MRI基礎代謝測定などいろいろな
 検査を次から次へと、料金が心配するほどしてくれました。
 でも、糖尿病の基礎疾患以外には、原因がわかりません。◆◆

 

◆◆ 体力が回復して、痺れもかなり良くなったので、院内の
 ウォーキングなどの運動も進められました。
 そして2週間が過ぎた頃でしょうか、今までに行ってきた
 検査の中間報告をしていただける事になりました。◆◆

 

◆◆ 先生曰く、基礎疾患の糖尿病を治療する事が一番に
 挙げられました。
 続いて、無呼吸がかなりの頻度であるそうで、耳鼻咽喉科
 専門診断を受けるように勧められました。
 もう一点、PSAというホルモンの値が少し上昇気味なので、
 前立腺の異常があるかも知れないので、これも受診するように
 勧められました。◆◆

 

◆◆ その頃には、入院中にそれぞれの受診日も決まり、外出許可
 もいただけたので町中をウォーキングすることができました。

 以前入院した頃を思い出しました。

 楽しくて仕方ない毎日になっていきました。

 看護師さんが呆れるぐらい、、、。◆◆

 

◆◆ 耳鼻咽喉科の受診では、検査の結果人より扁桃腺が大きく、
 体重過多のせいで口腔を狭めていると言う診断でした。
 年内には再入院して扁桃腺を切除することに決めました。◆◆

◆◆ 泌尿器科では、PSAのマーカーがまだ癌である事を示す
 値にはまだいっていないので、1ヶ月事に通院しながら経過観察
 する事になりました。
 その頃には、ウォーキングが絶好調で、色々な街のコースを
 あちこち歩いて楽しみました。
 勿論、体力回復が目的ですよ、、、。◆◆

 

◆◆ そうこうしているうちに入院してから5週間が過ぎて、
 痺れもほぼ回復していました。
 感謝感謝の退院でした。
 会社にも振袖レンタルの責任者を降りる事の了解を事前に
 頂いていました。
 奴とも再会は、「元気で何よりだね」の言葉と、降格人事の
 給料8万円減でした。
 さらにその半年後には一般職になり、さらに8万円減額に
 なりました。◆◆

 

◆◆ 職場は以前から経験のある宴会の予約業務になりました。
 元部下と一緒に3交代でシフト勤務になりましたが、精神的には
 十分でした。◆◆ つづく

 費用は前回の入院と同様で、公休と有給の消化で基本級は頂け

 ました。
 入院費用は生命保険の入院給付金でほぼトントンでした。
 これに関しては、違う方法が別にもう一つあった事を
 知りませんでした。かなり大事な事です。次回に、、。

2 初めての大病になるまで 1

 2 初めての大病になるまで 1

 

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 こんにちは、tankuroです。
 今回の体験談は経緯から経過、手術、
 その後と4部作になります。
 笑って楽しんでくださいね。
 えっ、深刻じゃないのかって?
 人生それだけでは、、、。

 

◆◆ 私が50歳をだいぶ過ぎてバンケットの責任者を
 していた頃の
お話です。
 会社は大手一流企業の資本から外資系資本にかわり、

 さらに遊戯系資本になりました。
 利益優先の会社で一部軍隊式教育が
されていました。◆◆

 

◆◆ 経営が変わって半年が過ぎようとするある日の事、
 GMに呼び出されました。
 今度新しく成人者向けの振袖レンタル店をホテル内に
 儲けるので責任者になれとのご命令でした。
 まだ、本社との連携が充分に取れていない頃の本社から
 の指示でした。◆◆

◆◆ レンタル店?番頭?成人者?何故自分が選ばれた
 のかは理解が行きません。
 でも、宮使いの身です。断ることもできません。
 それは奴からの今で言うパワハラを受け続ける結果に
 なりました。◆◆

◆◆ 振袖のレンタル店は理に叶っていました。
 ホテル内には美容室も写真室も設備が婚礼用に設けれて
 いるからです。
 一度に着付けられ写真を撮れるのです。
 当然それが売りになりました。◆◆

◆◆ 立ち上げるのには、かなりの勉強が必要でした。
 京都や新潟にある仕入れ先の問屋まで出向き品定めをしたり、
 触った事もなかった振袖を広げたり畳んだり、柄や生地の
 セールストークまでも必死で覚えました。
 開店まで半年しかありません。
 夜遅くまでの地獄の日々でした。◆◆

◆◆ 経営方針や試算は本社の指示で何度も変わりました。
 一番は奴のパワハラが私の体を崩壊へと導きました。
 奴曰く「1000本ノックで鍛えてやっている」と他の社員に
 豪語していました。100本よりかなり多いじゃないか?!
 と言えればよかったのですが、、、。◆◆

◆◆ 深夜までの今日中に、適正者のアドレスを確保しろとか、
 本社関連の施設を全部歩いてセールスしろとか要望が
 エスカレートする一方でした。
 挙げ句の果てには、オープニングに商店街を、振袖を着せた
 女子社員を大名籠に乗せて、10数名で担いで行進すると
 いう暴挙でした。
 全社を挙げての取り組みです。
 勿論、私は渦中の人です。◆◆

◆◆ 商店街を大名行列で行進するには、当然警察の申請が
 必要でした。
 駅前でのチラシ配布の申請はそれまでこの為に何度も行って
 いましたが、申請はさらに大変でした。◆◆

◆◆ 大名籠の先導と後方見張りに一人づつの配置と、道を
 横断する敬語がさらに左右一名づつ必要でした。
 振袖販売と何の関係があるのか疑問が沸騰していました。
 しかし、当日は予想に反して問題なく終えることができま
 したが、私の心労は計り知れません。◆◆

◆◆ お店がオープンする頃から体調の異常を感じ始めました。
 まっすぐ歩けない歩行困難やくらみ、顔の半分が痺れて
 いました。原因はわかりません。
 一番は精神的に追い込まれていた事かも知れません。◆◆

◆◆ 直属の上司には相談していましたが、日和見な性格で
 親身になってはくれません。
 「あっ、そうなのお大事にね。」てな具合です。
 もうこれ以上続けてれば必ず死ぬと思いました。
 死んでやる!!◆◆

 

◆◆ そんな訳には、いかない!
 鞄に荷物を詰めて病院へ行こうと一代決心をしました。
 市内の比較的大きな病院なら入院できるだろうと勝手に
 思い込んでいました。◆◆

◆◆ 翌日、鞄を持って病院に受診しに行きました。
 たまたまみてくれた〇〇先生は、「入院の荷物を用意して
 診察に来る人は初めてだ」と笑っていましたが、後々に
 良い先生に遭遇した事を感謝しました。
 診察後だいぶ待たされましたが、無事に病棟に案内
 されました。◆◆

◆◆ 病室は6人部屋で右側の3つ並ぶベッドの真ん中でした。
 コンディションは最悪でしたが、そんな事は言ってられません。
 やっと現実から逃避できたのですから。◆◆ つづ



1、初めての大病

 

 ご挨拶

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 初めまして、tankuroです。
 皆さんのこれからの長い人生に少しでも
 お役に立てるように頑張ります
 これから徐々に投稿を増やしていきます。
 しばらくは工事中と思ってくださいね。

 42歳の時に初めて病と向き合う様に
 なりました。
 病気に対してどう備えていけばいいのか?
 私の体験談を面白おかしく感じてくださいね。
 対処法は後々案内図でお示しします。

 

1、初めての大病

◆◆ 私が初めて病気と対面した話をさせ
 いただきます。
 2度目の厄年つまり大厄の42歳の話になります。◆◆

◆◆ 本当に大厄ってあるんですね。

 体調が悪化したのが私が42歳の大厄でした。

 厄年を少し補足しますと、男性が25・42・61歳、

   女性が19・33・37・61歳が大厄、その前後の年が

 前厄・後厄と言われてます。

 それぞれ3年間は注意したほうが良いですよ。◆◆

 

◆◆ 私の前職はホテルマンです。

 バンケットや宴会予約などの責任者や窓際を

 経験していました。

 バンケットの責任者をしていた時です。

 足裏や尻ペタにヒリヒリする痛みに悩んでいました。

 立ってもも座ってもいられない痛みでした。

 原因は自分では思い当たりません。

 ただ、体重は不摂生で95キロはありました。

 今思えば恐ろしい体重です。◆◆

◆◆ そこで知り合いから、山間部にある県立の

 大きな病院の受診を勧めれました。

 藁をも掴むつもりで、まずは受診しました。

 栗が落ち始めた頃です。◆◆

 

◆◆ 最初の受信で、糖尿病の疑いがあるとドクター

 に告げられました。

 その病院は250床もあり、リハビリ施設と温泉が

 ついていました。

 友人から3週間程度の検査入院をする事を勧めら

 れていたので、ドクターに無理矢理に入院をお願い

 しました。◆◆

◆◆ 1週間後に入院する事ができました。

 4階にある4人同室の大部屋でした。

 1日に2度のラジオ体操付き付きです。

 同室者に話を聞くと毎年体調管理の為に、リハビリ

 中心に入院する人が多いとのことでした。◆◆

◆◆ 同室者に同じ頃に入院した同じ年頃の

 ”しんちゃん”がいました。

 病気と入院計画がほぼ同じだったので、ほとんど

 彼と一緒に行動しました。

 なんだか高校生活を思い出しました。

 林間学校に来たみたいです。◆◆

◆◆ 入院日から1週間は検査・検査とたまに勉強

 でした。

 検査は朝一番に糖を注射して、1時間おきに血糖を

 測定するものや、1日に何度も尿をとって検査する

 ものでした。 

 もちろん、血液検査や心電図やレントゲン・MRI

 などもメニューにありました。◆◆

◆◆ リハビリ施設らしく、早い時期に身体測定も

 ありました。

 辛かったのは、初めての1300カロリー制限の食事

 から来る空腹でした。

 栄養指導とリハビリのための運動のカリキュラは、

 すぐ手元に来ました。

 もちろんほとんどしんちゃんと一緒でした。◆◆

◆◆ 1週間はあっと言う間に過ぎました。

 検査はほとんど終了して、残るは健康状態に戻す

 投薬と運動が中心になりました。

 その為の外出も許可されました。

 そこからは信じられないくらいの地獄からの

 天国でした。◆◆

◆◆ リハビリの為の運動の授業以外は自由時間が

 いっぱいありました。

 その時間は歩ける患者はハイキングやウォーキング
 に
時間を費やせました。

 まるで高校生活が戻って来たみたいでした。◆◆

◆◆ 1日に2度ハイキングにしんちゃんと
 出かけ
ました。

 ずっ~と坂道のハイキングコースを辿ると1km

 ほどの先に山寺がありました。

 最初は二人とも体重が重力に逆らい、辛い坂道と

 動悸を経験しました。

 それが徐々に体が慣れてゆき、スキップができる

 までになりました。◆◆

◆◆ そのルートは病院中心に先輩たちが開拓した

 ものが色々ありました。

 お腹が空く以外は本当に薔薇色の天国でした。◆◆

◆◆ 温泉は大浴場があり、女性職員付きでした。

 2週間が過ぎた頃に恥ずかしがり屋の自分にも

 決心ができ、利用することにしました。◆◆

◆◆ まずは、利用書に病棟・病室名・氏名・時間を

 書いて脱衣所に向かいました。

 入浴の準備が整うと順番に入室が許されました。

 浴室は20人が楽に入れるくらい広かった様に記憶

 しています。

 そこにも係りの女性が1名目を光らせていました。◆◆

◆◆ 私は先に着席できるシャワーの前で体を洗い

 ました。

 久しぶりの入浴にワクワクしました。

 洗った体をシャワーで流し、いよいよ浴槽に入ろう

 とした時です。

 「まった!」がかかりました?

 なに、なにごと?、、。

 自分の事?何かした?と心の声が嘆きました。◆◆

◆◆ 「お尻に泡がいっぱいついてるよ」と指摘される

 より早く湯船の温水をお尻にいっぱいかけられました。

 「はい、もう大丈夫!入っていいよ!」

 「ありがとうございます」恥ずかしい。。。

 でも、ゆったり湯船につかってご満悦でした。◆◆

 

◆◆ 3週間の延長をドクターと会社に承諾をいただき、

 入院生活をエンジョイしました。

 会社に行きたくない!が、正直な気持ちでした。◆◆

 

◆◆ ちなみに、退院の特には体重が85キロになって

 いました。◆◆ おわり

現実の話し
 1、入院に数は40日でした。2ヶ月に跨いだので次のように
  計算しました。
       一月 公休9日X2 残数は22日有給使用
  よって,入院中も基本給はいただけました。
  病院に支払ったのは、1日約¥5000で40日分プラス検査
  費用でした。
  これは、日生の保険でほぼタントンでした。
  生命保険がこんなに役立つとは初めて実感しました。